トピックス-Topics-

2017/06/30
藝文對談ともえ:第五十五回:篆刻とその周辺 を公開

話者:センセイ、マッサン

引き続き出先で篆刻の話。センセイが主宰し、マッサンも所属する泰永会での書展。泰永書展で来場者の書家から言われた感想をマッサンが言う。篆刻が書に合っていて素晴らしいというもの。そこで、書と遊離する篆刻と書作品に問題は潜在的に多くの書家が抱えていると知る。「印は教養がでる」とセンセイ。勉強しました、頑張って掘りましたという印はそれだけのものである。書にせよ、篆刻にせよ、茶碗にせよ、余裕の中で営んで仕上げたものでこそ鑑賞出来るものであって、必死にやって頑張りましたというものを見せられては百年の恋も覚めると。書はそもそも文があって字があるのであって、余力の部分でやってこそと語る。そこから箱書きの話に移り、作品と篆刻に纏わる関係性の話に展開していく。

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2017/06/20
鳳煌会のサイトを新設
松里鳳煌が主宰する書道会。鳳煌書道会(書道・鳳煌会)のサイトを新設しました。

今後、散らばっているサイトを整理・統合していき、新しい記事はこのサイトにて行っていく予定。
現在中心となっているBloggerの鳳煌会はサイト不具合時の避難場所として残していく。

http://hoko-kai.yataiki.net
2017/06/20
藝文對談ともえ:第五十四回:篆刻と脈絡 を公開
話者:センセイ、マッサン

出先での収録。書作品にとって篆刻というのは作品と一体化している。にも関わらず、篆刻家が篆刻を作るという分業化がなされている点についてマッサンが話を始める。篆刻家の篆刻を見て、作品単体として見ると素晴らしいものだが、自作に押すことを想起するとどうしても作品と遊離してしまうと感想を投げる。絵画におけるサインは自分でなされる。ところが、サインの一つに相当する篆刻は篆刻家から購入し押印することになる。篆刻を十代の頃より自作していたセンセイに、自作と篆刻の関係について話を聞く。

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2017/06/10
藝文對談ともえ:第五十三回:不気味の谷 を公開
話者:センセイ、マッサン

カルフォルニア大学で”不気味の谷”の存在が確認されたというニュースを話すマッサン。昨今のCG技術の発達。そこへ来てAIの急速な進歩。”不気味の谷”というのは人間に必要な防衛本能という視点から、その本能を超える。マッサンはそのようなリアルな作物とどう向き合えばいいか投げかける。センセイは谷を超えることそのものは、人の防衛本能を越え快感性を与えるということだから、それそのものはむしろプラスであり、不気味の谷に落ち込んでいる状態の方が人間にとっては良くないだろうと応える。マッサンはこうした技術が社会に浸透しても人間の仕事そのものは増えることはあっても減ることは無いにせよ、人間ならではの活躍してきた場所が減ることを危惧していると語る。それに対して、センセイは書家としての目線で書作品に例え、その解決策を発想していく。

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2017/05/30
藝文對談ともえ:第五十二回:書作品とその周辺 を公開
話者:センセイ、マッサン

出先の会場で収録。マッサンがLEDの登場により目が非常に疲れ安くなったと話し出す。そこからLEDに限らずCGを使った映画や看板広告等がすべからく共通点として「自己主張が激しすぎる」と。目の肉体機能から考えて眼精疲労が累積的かつ加速度的に増大している社会を語る。そこから書作品の鑑賞方法へと話しが移る。持論である「部分は全体を越えられない」が関わってくる。作品は全体感で決まるという。全体を見て、細部を見るもの。全体が崩れていれば細部がどれほど緻密でも覆られない。大作の場合、全てが克明に描かれた作品は鑑賞者側に圧が強すぎて全体感を損なうことを考慮にいれる必要がある。量感が強いのであれば細部は寧ろ疎にして全体感を伝わるようにする等の表現技法の話しに。そこから書作品と作品表現の話しに深まっていく。

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2017/05/20
藝文對談ともえ:第五十一回:書 を公開
話者:センセイ、マッサン

2017/5/20sa:書き始める動機は単に「似せて楽しい」といった部分から始まるもので構わない。現代人は「読める読めない」「意味がわかるわからない」で手が止まることを指摘し、その本末転倒さを言う。漢字が読めなくて気になる人は自分で漢和辞典を調べ、自得すればいい。やっているうちに人はどうあれ次第に気になるもの。その時点でやればいいと。本来は行為が先にあり「この差はなんだろう」と疑問に移り変わるのに、今は行為の前に知識を入れようとする。センセイは「小さな疑問の積み重ねで教養というのは出来るのに、今の教育は一纏めにして教え込んでしまうから逆に小さな変化への気付きや疑問は失われ、それはつまり教養がない人間を排出する」と指摘。マッサンは現代は何でも類型化しており豊かさが無くなったと応える。小さな疑問の積み重ねは教えられるものではなく、自ら体験し、感じてこそ湧き上がるものであるとセンセイは述べ、更に書の話しが続く。

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2017/05/10
藝文對談ともえ:第五十回:世にも不思議な話 を公開
話者:センセイ、マッサン、トッチャン

2017/5/10we:妖怪と現実との虚ろな関係を話しているうちに、センセイが「そっちのことなら幾らでも言えることがある」と実際に体感した奇妙な経験を語り出す。そこは仕事で訪れた古いマンション。恐らく戦後すぐ建てられたような佇まい。今とは異なる構造。マンションの中央に入る引き戸がある。センセイの体験から、現代は科学偏重主義になり過ぎて未科学(科学でまだ解明されていない部分)の存在を無いかのように疎かにしている問題点を指摘。(センセイは最終的には科学で全て解明されるのだろうが今はその兆しすら見えない科学レベルと捉える)マッサンは妖怪とはまさに日本における理解不能な事象や、受け入れがたい現実を「妖怪」に置き換えることで「先へ進む」手助けにしたのだろうと締めくくる。

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2017/04/30
藝文對談ともえ:第四十九回:妖怪と日本人 を公開
話者:センセイ、マッサン、トッチャン

2017/4/30su:一連の妖怪作品の話を踏まえ、マッサンが昨年八月に開催された「大妖怪展」の感想を語っている。本展では妖怪が出て来る美術作品が全国から集められ一堂に会したもの。江戸東京博物館で開催された。過去から現代まで時系列に並べられた作品を見て、次第に確固たる存在となっていく妖怪という存在に、一つの型が生み出される創造の過程が見れたと語る。そこから嘗ては妖怪が日本の文化に強く根を下ろし、小さな地域社会の安寧や隠れたる人心の後ろ支えになっていたのではないかと持論を述べる。更に宗教における異形の存在、化物へと話が膨らみ、日本人の精神性を垣間見る話になっていく。

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2017/04/20
藝文對談ともえ:第四十八回:創作の格闘 を公開
話者:センセイ、マッサン、トッチャン お客様:本名カズト(ミュージシャン)

2017/4/20th:引き続き本名さんとの話は続く。デジタルと創作活動について話題が出る。「デジタル仕事による創作活動には格闘の後が見えない」という本名さん。デジタルは道具として見た場合にとても便利である。しかし格闘の後が消えていく点でデジタルは便利さ以外の点で何か大切なものを失っているのではなかろうかと。デジタル要因が不要と言いたいわけではなく、アナログとデジタル双方をわかっている作家はデジタルで失われる部分を把握した上でバランスをとれるが、そもそもデジタル作業しか知らない作家は、その裏側の落とし穴に気づかないのではないかと投げかける。作品への取り組みにはいかに格闘するかが肝。センセイは書家ならいかに座って書いているかであり立ってちゃしょうがないと言う。そこから構えの部分で現代の創作活動にそれぞれの思いを吐露していく。

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2017/04/10
藝文對談ともえ:第四十七回:音楽体験の変化 を公開
話者:センセイ、マッサン、トッチャン お客様:本名カズト(ミュージシャン)

2017/4/10ma:ミュージシャンの本名カズトさんをほぼ一年ぶりにお出迎え。最初に得た感動の要因を人は忘れがちで、活動を続けていると得てして技術、技巧に囚われていき「感動要因」が蔑ろにされるという話から始まる。その結果として鑑賞者側は「面白くない=感動がない」と感じる。真に長けた人は、初期衝動が色褪せること無く同時に技術も身につけていくと。マッサンは書においても同じであると受ける。センセイの話を引用し、長けることは結果身につくもので、必要ではあるが、何よりも感動が無ければ表現する意味を失う。本名さんは、「それでも気づいている人はいい、そもそも気づいていない人が増えている」と懸念を表し、その理由は音楽に関して言えば浴びるように聞いた人が減っているからではと持論を述べる。そこから音楽体験の変化が見えてきた。

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