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内容

Deep

 

 

2005/4/1

温故知新
 わけ合ってキューサイの青汁を飲んでいる。差し迫った危機に対して継続的に無理なく何か出来ないかという模索の結果だ。注文して2週間、何か得るものがあったので、半年から一年ぐらい続けようと思った。継続の注文をしようと思いながら注文を忘れる日々。人というのはチョットしたことであるほどに横着する。もうソロソロ、もうソロソロと思いながら数日が過ぎたある日の朝、電話がなった。

 青汁のコールセンターからだ。

 「その後どうですか?」という、継続呼びかけの電話だ。渡りに船で、定期コースを依頼し電話をきった。カレンダーを見てみる。注文から2週間程度過ぎていた。

 「なるほど、うまいな」

 私はそう思った。中には購入後すぐに電話する業者もあるだろう。だが、すぐ電話されても何も変化があるはずもない。「どうですか?」と言われても、「まだ飲んでない」となることもあるだろう。最近のコールセンターはどこも半端なマニュアルで半端に仕込まれている。だから、飲んでないのに継続を勧められるという事態も珍しくない。当初1か月分の分量を注文したので、2週間であれば半ば、そろそろどうしようか考える時期だ。揺らいでいる人なら効果的だろう。

 また、対応も悪くなかった。一方的に宣伝するわけではなく、昔で言う御用聞きのように、「どうですか?」と様子を伺うだけのニュアンスだ。これはとても重要だ。押し売りをする営業マンは企業から見ればありがたいのかもしれないが、私はそれをいい営業マンとは思っていない。言われなくても買う人には言葉をつつしみ、どうしようかと揺らいでいる人には「何か不足な情報や、ご不安な点がありますか?」と聞く姿勢が大切だと考えている。揺らいでいない、買うつもりのない人に買わせるのは、長期的に考えればマイナスにしかならない。だが、現実的には今の日本企業はどこも押し売りだ。電話においてもスピーカー的な一方通行が多く、対応の劣化が進んでいる。

 私は電話広告にも企業姿勢を見るので、余程のことがない限り、この対応が悪い企業の製品は買わないし、サービスを受けないことにしている。そういう企業は肝心の困ったことが起きた時に、やっぱりズサンだったというケースが多い。(100%ではないが)

 どんなに道具が便利になっても最後はここに辿り着く。買うのは人であり、作るのも人であり、対応するのも人である。品質が悪く、サービス、対応も悪ければ、買う意欲もわかない。そもそも本当に必要なものは十分揃っているはずなのだから。

 

 

  2004/7/5

★姓名判断2
 昨年は某社より依頼を受け、当初はテストで、最終的には社員全員をみることになった。その結果に社長は夜眠れなかったそうだ。なぜ、見たことも無い、声を聞いたこともない人間のことが、こうも正確にわかるのか?社長であるが故、社員を長年見続けてよく理解しているからこそ、その恐ろしさもひとしおだったのだろう。

 更に昨年末、氏にある依頼が舞い込んだ。それを聞いた私は、厄介なことに巻き込まれたな。そういう印象を受けた。何せ内容が内容だ。ただ、氏はいつもの通りだ。

「どういう人がいい?」

「出来るだけ早く解決したい」

「早いのがいいのね」

そうして実際に動き出したこの問題は、半年後、まるっきり氏の思惑通りであるかのように先日決着をみたようだ。それはあまりにも早い解決といえた。それに対して依頼者は、

「早かったですね!」

「だって、あんたが早いがいいって言ったじゃないの」

そう言った。

勿論、その依頼者ははなから100%信じていたわけではないことはニュアンスでわかった。藁をも掴む気持ちなのだろう。それが、ことが進行するうちに信じずにはおられなくなったようだ。ただ、問題もあった。それは、依頼者の関係者だ。いきなり姓名判断も何もあったもんじゃない。内部では揉めに揉めたようだ。ただ、次々と言い当てる氏と、確実に起こる現実に、異を唱えるものはいなくなったと思われる。

 解決後、依頼者はある命名を最後にお願いした。その命名の結果に、依頼者はおろか関係者も異を唱えたそうだが、今迄起きた現実を改めて思い起こすにいたり、先日その名前を採用させて欲しいと連絡があったそうだ。氏は、

「それが懸命だよ。皆が出した候補はどれも駄目だ」

そう言った。

 

 氏には私も驚かされたことがある。私しか知らないであろう私だけの心の闇。私は随分と苦しんだ。しかし、それを他人に理解させるなんて不可能な話だ。自分さえ受け入れられない、理解しきれないのに他人に理解されるなんてありえない。カレーを知らないのににカレーが出来ましたと言うようなものだ。だから私は他人が自分を誤解していても何も言わなかった。「この人は私をそう思っているのか」そう思っていた。だから、この闇は、親はおろか兄弟友人にすらただの一度も明かしたことのない、自分にしかわからない闇。自分VS自分の戦いだった。それが、ある日、氏は唐突にサラッとそれを言った。

「その苦しさは本当に見てて辛いよ」

 言ったことはおろか、誰にも言われたことはなかった。聞くと、氏もずっと黙っているつもりだったようだが(10年黙っていた)、丁度いい機会だったので言っておこう、そう思い言ったようだ。驚いた。衝撃が走るとはまさにこのこと。

 

 姓名判断をみた相手の反応は色々だ。往々にして男性は素直に受け入れる場合が多いが、女性は往々にして受け入れられない人が多い。それについても氏は「そうだろうね」とアッサリ語る。最終的に「何を信じ、何を信じないかはまさに人生そのもの」そう思っている。例え信じたところで、ハイそうですかといきなり変えられるものでもない。口で信じたといって180度違うことやっている人も五万といる。それほどに容易なことではないのだ。

 私は正直言って姓名判断のことはわからない。だから当るとか当らないとかそういう観点では見ていない。正直私のような素人が半端に理屈をこねくり回してもわからないだろう。私にとって言えることは氏は信用できるということ。これ以上信用できる人間は他にはいない。そこまで信用できるのであれば、何であれ耳を塞ぐのは懸命とはいえない。今後も耳を傾け、数々の事実を見届けるだろう。4年後が楽しみだ。

   

 

2004/11/6

姓名判断
 

今諸事情により当サイトではお休みさせてもらっているが、知れば知るほどに姓名判断ちゅーのは怖い、いや怖いなんてもんじゃい。世界の七不思議だ。なんなんだ!と思わせる。平安時代には国家の命名に関すること全て陰陽寮だったか政府の機関が、つまり国家が管理していた。マジに今から政府も立ち上げんかいね!と言いたいほど驚いている。ちなみに「平成」という号は、あることが起爆剤になり、以降右下がりが止まらないということで関係者には有名だそうだ。事実そうなっている今を思うとマジに勘弁して欲しい。

先日も、ふと思い出し、頼まれていた友人の名前を特別に見てもらった。勿論氏には一度も話したことはない初めて口にする人物だ。名前だけ見せた。それこそTVご活躍されている細木さんじゃないが、そのものズバリでまたしても驚く。氏は、画数と陰陽と五行、生年月日も見せれば六星も加えて総合的に判断する。

氏の話では、画数だけで判断してつけられた名前も最近は多いそうな。すると陰陽や五行のバランスが悪い名前がついてしまうそうだ。このバランスの悪さというのは怖いらしい。その名前をつけられた本人が一番苦しむようで、常々に素人判断は怖いと聞かされている。
「プロでも素人みたいなプロも多いから、何か名前をつける時は私に聞いて!」と、ことあるごとに念押しされている。
各言う私の名前は相当にいいらしい。単なる偶然だ。
「もし私が悪かったどうされました?」そう問う私に。
「改名させるか、それをしなければ自然と自分から私の元を去っていると思うよ」そう笑顔で応える。

「凄くいい名前の人の所には、悪い名前の人はいられないからね。私は自分から止めなさいと言ったことは一度もないけど、必ずそういう人は自分から去っていくよ。そして、残っている人は皆名前がいい。そういう風に世の中出来ているんだね」そうつけ加えた。

「そう仰る先生の名前はかなりいいんですか?」と問うと。

「良いなんてもんじゃないよ、最高だよ。これ以上ないよ」

そう応えてくれた。

元々相当よかったようだが、今の名前は最高の名前にする為にタイミングを見計らって自分で名づけたようだ。このタイミングってヤツも重要らしい。名前が本当の意味で自分の歩みに定着するには三年はかかるそうだ。悪いタイミングで改名してしまうと最悪らしい。全くもって不思議でならない。

 

 

  2004/7/5

デジタルの嘘
 人の得る多くの情報は錯覚と誤解に満ちている。だからビジネスでも相手を意図的に錯覚に陥らせるようなことをする。例えば洋服の似合うモデルを探しあてがう。そうするとさも自分が似合いそうな錯覚をおぼえるなど。以前はそれらも含め、イカニモといった子供のようなハッキリとしたものだったが、最近はあらゆる分野が巧妙になっている。

 確かに極端にいったら私たちの社会は、嘘で成り立っているといっても過言ではないだろう。もし100%真実だけで構成された社会になったらただの一人も生きてはおれまい。皆最後には発狂してしまうだろう。人の心とは恐ろしくデリケートなのだ。

 映画や写真の世界でも錯覚は昔から十八番だった。何せビジネスの相当な部分は映画や写真の手法をパクって今に到っている。この世界でも、以前は遙かに明らかにソレとわかるもので微笑ましかった。それが最近どうであろうか。あのアカデミーショーを総なめにしたロード・オブ・ザ・リングのCG。どのカットがミニチュアで、どのシーンがマットペインティング(絵)で、どこが現実で、どこがCGなのか区別がつかないと言っていいほどに技術は進歩した。私は仕事でいちを素人なりにカメラを使う。素人が仕事でカメラを使うならデジで充分な場合が主だ。スナップなら私は迷わずスチールを使う。遙かに面倒がない。対象者を撮影しデータを確認すると、95%がたはお話しにならない。最近はストロボを使わないことに当然の快感を感じているから余計だ。知識もなく腕も伴わなければ当然であろう。辛うじてなんとかなりそうな、残り5%も、そのままではよろしくない。そこでデータに手を加える。あ〜ら不思議よさそうな写真に変身を遂げる。なんか綺麗だしデジええやん!となる。

 ところがである。映画もそうだが、デジ写も、しばら〜く見ていると、妙な違和感というか居心地の悪さを感じだす。見れば見るほどに違和感は増大し、突如パタッと嫌になる。スチールでは感じたことの無い違和感に不思議に思っていた。

 ある学者の本をつまみ読みした時に謎は解けた。(ような気がした)それは、人間の目が嘘に気づいたからだそうだ。人間の目は総合的な意味での目なので、実は遥かに嘘や、現実ならざるものを敏感に感じとるようだ。その実例の一つとして、こんな経験がある。

 ある依頼でスチール写真を撮った。それを後処理の関係でデジ化し渡した。渡したのは、ここまでいったら嘘だよな〜という加工した写真と、ここまでは良心だという写真。そして素のままの3種の写真を渡した。結果はご想像の通り、ここまでいったら・・・をほぼ全員が選んだ。私はというと、ここまでは良心という中間を最後までおしたが、誰一人賛同しなかった。最も驚いたのは、加工しない素の写真を指さした人がいたことだ。しかも少年というにはまだ幼い幼児なのである。単なる偶然だろうと、何度か違ったパターンで見せたが、彼は何度見せてもその写真を選んだ。私が子供の目の素直さに感動したのは言うまでもない。

 1987年作ポール・マイケル・グレーザー監督の映画に、バトルランナーというのがある(原題:The Running Man 原作:スティーブンキング)。映画の内容はおもいっきしB級で、しかもお勧めしたくはない映画だが、唯一その未来描写のリアリティと潜在的悪夢だけは忘れらない映画になった。その描写とは、主人公がCG合成され、残虐無比な人間として放送され、それを皆が信じてたシーンだ。そう遠くない未来にそういう事件が起きるのだろう。

 目を鍛えるなら本物を見ることから始めるのがいいが、実際は、その本物すら減っているという事実もまた恐ろしい。

 

追記<<<

「人間の目」

 人間の目は遥かに大雑把に、かつ同時に緻密にも捉えている。目の周辺部は何気に怠け気味だそうで、見えているのは中心部の働きによるものが大きいそうな。しかも、それすらも変化していて、注視具合に応じて変幻自在に動くと言われている。単純に画素数では比較出来ないが、今のデジは600万画素だ。人間の目は700万画素とも1億画素とも言われている(実際には基準が異なるので単純比較は出来ない)。

 でもさー600万画素のフルモードで普段からとっている人は仕事人以外では1割もいないっしょ。せいぜい100万画素レベルで記録されているって知ってた。

「バトルランナー」

原作はエッセンスだけ同じで、何から何まで全く違うらしい。だよな〜じゃないとあんな映画になるはずもない。粗筋だけ読んだが、さすがスティーブンキング!粗筋だけで興奮してくる。ただかなり暗く、救いようの無い現実そのものが描かれているらしい。その辺もさすがキングである。甘い夢は見させてくれない。

「本物すら減っている」

観光客がありがたがっている万里の長城は、最も衰退した最晩年の明の時代のものだし、それに更に手が加わっている。ダヴィンチの名画、最後の晩餐は、描かれた十年後だったかには絵の具が剥離し霞がかかったようだと評され、後に彼の現役当時のライバルであったミケランジェロにより、修復というなの描き換えという仕打ちを受け、その後もさんたんたるありさまに。まー幸いにも修復の神様とお言われる方々の手で未だ嘗て無いほどに当時のものに近くなっているらしいが、間違いなく当時のものではない。今あるものが明日あると思うなってとこだろう。

   

 

2004/6/9

事件と規制
 小学生のあの事件は、衝撃というより「遂にきたか・・」といった印象だった。その理由は、10年程度前に私がよくみていたアメリカのドキュメント番組で似たような事件がしょっちゅうやっていたからだ。日本の社会現象は、まさにアメリカの10年後を行っている。昔からそう言われてきた。そして案の定そのままである。つまり社会に現象が浸透するまで10年の猶予があったのだ。にも関わらず日本の大人たちはそれを無視し、省みることなく歩み、当然の結果をみる。
そして当時のアメリカが抱えていた問題と同じように失敗した方法をわざわざ真似て後追う。規制することで何も解決しない。規制が効くのは、もっと社会が遙かに無垢で某国のように情報が行き届かない国に限定されるだろう。にもかかわらず同じ過ちを繰り返す。

そう遠くない先、日本の学校もアメリカの学校のようになるだろう。
安全確保の名の下に、監視カメラがあちこちに設置され、警備会社の人間が警棒をもってうろつく。そして安全の名の下に設置されたルールや機器を使い大人が新たな犯罪行為を行う。生徒はむせ返るような大人たちの不信感の中でわけわからん教育を受けさせられ、一層暴走は進む。当然の暴走だろう。

日本では、現に安全の名の下に監視カメラが設置されつつある。そしてそれが効果を発揮した言われる。今後爆発的に広まるだろう。それは単なる大人の手抜だ。まるで対処療法と同じだ。さも問題が減ったように見えるだけで、なんの解決にもなっていない。根本を改善しなければゆるやかに腐りゆくだけだ。でなければ薬が毒になり、新たな副作用に悩まされるだろう。せめてもの救いは、日本は銃社会じゃないということ。ただ、それも気休めに過ぎない。

 

子供の頃から当たり前のように暴力や性を見せられた子供が、自意識が目覚める前に本能に支配されるのは至極最もな話だ。テレビや映画、あらゆるメディアではどうすれば人が死ぬか、死んでいるか、死ねるか当たり前のように垂れ流す。大人は当然のものとそれを見せる。
私が知ったアメリカの某事件は衝撃的だった。それは警察もその異質さで驚いた。ある小学生が数人の幼児を虐殺し逮捕されたのだが。彼は普通の小学生だった。しかも、両親はいたって暖かく、子供にも目をやり、無闇な強制もせず、かといって野放図でもない。よくある暴力的な映画を常習していたわけでもなかった。全く原因がつかめない警察は、その特殊性から徹底的に調査数ヶ月をようした。その結果はこうだ。彼は誰からも隠れて密かにネットしていた。そして、そういうサイトの常習者だったのだ。誰にも気づかれないように、痕跡を消したり、遙かに狡猾に。
警察が「きみがやったんだね?」と問うと、彼は「うん」と事も無げに答えたという。

自分が子供に戻ってみよう。「駄目だからね!」なんて甘美な言葉だろう。冒険心をそそられる。その時私は、小さな小さな冒険家になる。しかし小さな冒険家はあっさり見つかりお咎めを受ける。「次はもっと上手にやろう」そう思うに違いない。そして繰り返し繰り返し人は狡猾になっていく。
そこにそれがあるという事実は変えられない。道具があるのに使うなと言われても、あるという事実は変らない。好奇心そそる道具や、映像は目の前にあるのに。大人ですら我慢できないのに子供なら当然だろう。
甥っ子がCDのきらめきに興味をおぼえた3歳頃。うっかり目に付いたらしい。私は仕方ないと思い、あえてやらせてみる。彼は同じことを何度もする。上手には出来ない。でも、何度も手本をみせてはやらせる。こうだよこうやるんだよと。4歳にもなると彼は上手にCDを替え、再生するようになる。しかも以前のように執拗にやろうとしない。道具は覚悟を決めて使い方を教えるしかない。覚悟?壊れることもあるだろう。それは仕方がない。大人と違って、それは故意じゃないんだから。それを怒鳴っても子供は怒られた理由がわからないだろう。少なくとも私は子供の頃そう感じた。

 

 

  2004/3/28

五黄殺
 今年はのっけから妙だった。それは1月2月と続き、私は意気消沈の為、身動きがとれなかった。3月になって盛り返しては来たものの、何かがどことなく変だった。原因不明の何かに心が沈む。私はその答えを無理に探そうとはせず(それこそ鬱になるから)、放っておいた。それを「外出しないから鬱気味になったんだよ」と知り合いは言ったが、本当の鬱を体験しただけに「違う」と心の中で即否定できる。その答えがこれかもしれない・・・。

 方位学上、今年がどんな年か先日しった。五黄殺、ものが徐々に腐りゆく年まわりだそうだ。鼻で笑う方は読まずに飛ばして頂きたい。その年の節分から来年の節分まで、旧暦のことを考え2月末までを考慮に入れるらしい。

 当初、氏の話をふ〜んてな具合に聞いていた。侮っているわけではない。一見解として聞いているだけだった。ただ、氏の助言は見事に的中する。それを何度となく見てきたから疎かに出来るはずもない。とある企業から、内密に社員を見て欲しいという依頼を受けたこともある。その結果は驚愕と共に受け入れられた。その氏が、方位学は姓名学以上に恐ろしいと語る。姓名学は、欠点を知り、それを慎み、改善することが出来る。だが、方位はそれが効かない。動けば起きる。だそうだ。

 その日、たまたま雑談で、こんなことすることになったんですよ。と言ったら一瞬で氏の顔が硬直する。滅多に見ることのない顔だ。氏の父君もまた方位を重んじている。その話をしたら、まったく同様に顔が硬直し、青ざめた。絶句し、言葉もない。私はわけがわからず眼が点である。

 信じる信じないは別にして、私の最悪だった人生の数年間。その始まりは・・・まさに今年と同じ年回りであったことが判明した。私はこの年に、動いていた・・・。しかも動かなくていいチャンスを与えられながら動いた。驚いた、驚きを通り越し、大真面目に背筋が寒くなった。あの期間は本当に辛かった・・・。今思い返し、乗り越えてしまえばいい肥やしになったと言えるが、当時は別だ。自分自身を始め、全てに裏切られた思いだった。まさにその年に私はここへ越してきた・・・。

 これを読み、少しでも何か心に掠るものを感じたなら、今年は新築、改築、改装(特に釘を打つような、物を置くぐらいは問題ないらしいが)、引越し、旅行、新規事業の立ち上げ等は控えた方がいい。氏に言わせたら「控える?止めるんだよ!金払ってそれで解決するなら払えばいい!!」と私は食らいつかれた。少なくともあんな思いは二度とゴメンだ。

   

 

2004/1/8

★台湾紀行〜書譜を見て〜
 十一月に台湾へ行って来ました。
 台湾と言えば、ご飯が美味しい!更に日本には無い甘味どころが!といったところでしょうか。旅先でショッピングを一切しない私の楽しみは、異国情緒を楽しむのと、食事!これに尽きます。

 さて、台湾では、書譜の原書を見れて感激です。書譜というのは、約1300年前に孫過庭という人が書いた草書の至極で、解説によると時の皇帝が、その書の素晴らしさに保存を命じたそうです。そのお陰で、原本が残っているわけです。

 ビックリした。
 やっぱり本物だ。本物は違う。
 何が違うって、墨の濃さ、盛り等、まさに立体なのだ。バカみたいだが、改めてそう思った。印刷物ではコナイ何かが、紛れもなく、キタ。それは感動なのだろうか。
 展示ケースの長さの関係で全部は見れなかったが、そこにはまさに現物があった。
 私の印象は「何て綺麗なんだろう!」だ。
 良く見るためにケースにへばりつく。
 前半部を見ると、ゆったりとして、遅々とした運筆に見える。が、違うのだろう。ひょっとしたら孫過庭の中では遅々とした運びなのかもしれなが、実際みると相当速いと思う。
 そして、流麗でいながら、日本仮名とは全く異なる印象を受ける。仮名の原点であるにも関わらずだ。それは、点画がしっかりしているからかもしれない。点は点として、画や折はそれとしてしっかり書かれている。にも関わらず途切れのない流れ、そして曲線。理不尽にすら思えるそれら全く異なる要素は、見事に、かつ当たり前であるかのように融合している。曲線は、緩急のある運筆なのだろか。先生が草書を書くときそうだ。一瞬の静止、そして激流の運筆。とにかく速い。
 でも、さらっと書いてあるかのように見える。書譜の書き始めはしっかりとしており、草書を思わせないような構築性の高さ。しばらくすると、徐々にこなれてくるのか、いつの間にか滑らかな印象に変わっている。
(私はこの中盤に特に感じ入る)
 更に進むと、滑らかさから激しさへ徐々に変化する。激しく滑らかに、また激しくといった感じだろうか。本で見ている時は中盤以降のダイナミックさをそれほど感じなかったが、原本からはそのダイナミックさが感じられる。
 突然、私はまるでウォーリーを探せのように、ある箇所を探しだした。それは、印刷では破れて見れないところ、もしくは先生に「ここは上から書きなおされているんだよ」と訂正が入った箇所だ。印刷で辛うじてわかる程度だったが、現物はどうであろうか。
「あった・・・ビンゴだ」
 そこは紛れもなく破れている。また、間違った箇所は上から書きなおされていた。墨が濃いので明らかに色が違う。私はウォーリーを見つけた子供のように、一人したり顔でいた。
 私は一人バカみたいに興奮し、疲れたら椅子に座り周囲を呆然と眺め、また元気が出てきたらショーケースに張り付くを繰り返す。時間ギリギリまで見ていたせいで少し遅刻する。

 最後に残念に思ったことがある。
 それは、その間、日中の様々な説明員が前を何人も通り過ぎていったが。皆の説明はこうだ。
説明員「これは中国の凄い有名な書です」
日本人「なんて書いてあるんですか」
説明員「中国人も読めません」(一同笑)
日本人「一杯書いたのねー」
 終わり。
 それで終わりなのだ。時間にして十秒程度だろうか。会話があるだけましとも言えた。ほとんどはこうだ、
説明員「これは有名な書です。なんて書いてあるかわかりません」
日本人「へ〜」
 終わり。
 一時間少々いて、色々な人たちが前を過ぎ去って言ったが、それなりに見ていったのは一グループぐらいだろう。
 でも、正直見るほうはしょうがないと思っている。問題は説明だ。他に言いようがあると思うのだが・・・。
 まっ、日本も偉そうに言えたもんじゃないですけどね(笑)。

 

 

   

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